中学2年生の冬だった。我らが南山学園の講堂は人並に古めかしく、こぢんまりとした門を開けて、ところどころ茶色に錆びた外付けの階段を登って講堂の裏口を通らなければ、堂内に入れなかった。私は学校指定の藍色のコートを着て、まだパーヴォヤルヴィのサインが入っていない真っ白なバイオリンケースと、楽譜と筆記具と水筒が入っただけのペシャンコのリュックを背負って、門が開かれるのを待っていた。8時半頃になると先輩が来て、門を開けてくれるのだ。それほど早い時間でもなかったが、朝一番の空気は冷たいな、などと一丁前に考えたりしていたのを覚えている。当時の私は、先輩が朝早くから来るのに、自分がそれより遅くに来てぬくぬくと練習を始めるのはおかしい、と考え、自分が先輩よりも下手なことは自明、ならば自分は先輩よりもたくさん練習しなければならない、それは当然のことだと、そう信じていた。

 毎朝、誰よりも早く練習に来た。その代わり、帰宅時間の17時半になったら誰よりも早く片付けを始めた。当時の私は部内に友達がいなかった。

 私に友達がいなかったことは二つの原因がある。

  まず一つに、(現在も改善されていないのだが、)私は友達を作るのが不得手だ。また、私には自分から友達を作ろうとしないきらいがあるようだ。これはとても悪いことであると自覚している。人間関係の構築を怠り、周囲の人間にそれを押し付けているのと同義だからだ。私はまず自分が恥をかくこと、傷つくことを恐れずに、自発的に人との会話、コミュニケーションをなるべくたくさん試みるべきだった。コミュニケーションは場数でしか上達しないのだから。実践あるのみ。経験と反省、これを繰り返して人は円滑なコミュニケーションを学んでいくのだ。自己分析はある程度できているらしい。

 次に、合計8人存在するバイオリンの同輩のうち、実に6人が経験者、あと1人は幽霊部員だった。四面楚歌というか、四方面からあの忌々しいサンサーンスアルジェリア組曲が聞こえて来たというか(当時、経験者の同輩はほぼ全員この曲に乗っており彼女らのお気に入りだったようで、暇さえあれば同輩内で合わせ始めた。私は邪魔をして反感を買わないように、自分の練習を中断してひっそりと曲が終わるのを待った)。念のためいうが、お察しの通り私は中学でバイオリンを始めた。私の小学校時代はゲームと中学受験とコロコロコミックで構成されている。そのため、未熟で矮小な中学二年生の私は、彼女らを恨み、妬んだ。彼女らは部活に来てもほとんど練習などしていないように、当時の私の眼には映ったようだ(ものすごく主観が入っているかと思うが、少なくとも3割ほど事実である。彼女らは練習時間の多くをおしゃべりと遊びに費やした。ただし、結果をいうならば、現在その彼女らと私は非常に良い関係にある。大学に進学したメンバーでなんとなく暇な時に話すようなチャットグループもある。そしてよく使う。)

  一つ上の先輩も、練習しない人たちだった。なので、おしゃべりな同輩たちがいない時の練習場所は、いつもシーンと静まり返っていた。後輩も、音を出すのを怖がって、練習できなかったようだった。

              音を出さなければ。それも芯のある、大きな音を出して練習をしなければ、私は引退するまでこのままだと思った。なぜかはわからないが当時の私は、上達もせず、孤立したまま、あんな先輩いたっけ?と後輩たちに思われたまま引退する、そんなのは絶対にごめんだと、そう強く思った。音を出さなければ。練習をしなければ。捨てきれない恐れと恥を抱えたまま、下手くそな音をたくさん出した。どれだけ自尊心を奪われようとも、私は汚い音を出し続けて、いつか彼女らを圧巻させるような、「音楽らしい音」を出せるようになるんだ、と意固地になった。私のかすれた雑音が、講堂の階段に響いていた。それはそれは心許ないフィンランディアだった。

              帰りの電車の中で、いつも一曲繰り返しにして聴いていた歌がある。兄に教えてもらった邦ロックのバンドの曲だ。「爆弾を一人作る 僕らの薄弱なアイデンティティ」。疲れ切った私の身体と脳みそに、そんな歌詞が酷く沁みた。最寄駅でホームから改札に上がるエスカレータのあの閉鎖的な空間で聞くその歌は、いつも私の涙腺とギリギリの理性を刺激した。

 

 

              私は沸き立つ何かを持っている。湧きたつ何かかもしれない。これは誰もが持っているものなのだろうと、私は確信しているのだが、確かめる術がないので省略する。この「わきたつなにか」は、熱いお茶を飲んだ時に「今喉のここを通ってるわ〜」とわかる感覚の同じくらい明確にゴポゴポと、私の心臓が溺れるあたりまで込み上げて、交感神経を刺激し、思考回路を鈍らせ、視界を狭め、頬を上気させ、両眼を輝かせる。(これを読んでいるあなたが身に覚えがあるのならば、やはり誰もが同じ経験をしているようだ。)私の短く未熟な人生で、この「わきたつなにか」に泣かされそうになった経験が数回ある。一度は部活帰りにラジオでラフマニノフ交響曲第2番の3楽章が流れた時、一度はハイフェッツの演奏するヴィターリのシャコンヌを聴いた時、一度は某バンドのライブに行って初めて横隔膜を震わせる音楽を知った時、そして一度は高校二年生の秋、弦楽部生活最後のコンサート、2nd1プル裏で弾いたチャイコフスキーの弦楽セレナーデの四楽章で一楽章のメロディの再現が行われる前の0.数秒のゲネラルパーゼ。

              あの日、入部したての時はあんなに大きかった、あのライネルスホールで、憧れの弦セレを弾いた。そして確かにあの瞬間、まだ終わってほしくない、そう思った。あんなに辛かった私の青春時代、早く終わって欲しいと望んでいたあの日々を、ほんの僅かでも求めてしまった。

              (わかりにくいかと思うが、私が所属していた弦楽部のバイオリンパートは、トップの学年の中でパートリーダー2人と副パートリーダー2人、計4人が存在する。そしてその4人はコンサートの1プルトに座るのだ。引退時、私は副パートリーダーだったというわけだ。)

              私はこれをサクセスストーリーだとは思わない。過去の私を不遇だったとは思わないし、幸運とも思わないからだ。あの環境が今の私を育ててくれたのだ、と月並みな解釈も試みた。だが、現在の私が享受する諸々を理由にして、当時、確かに苦しんだ自分をなかったことにするには、そして肯定するには、私はあまりに大人じゃないようだ。(第一、共に励む仲間が一人くらいいてくれたって、同じくらいには成長できたのではないだろうか)だが、環境はいつでも自分を育てるもので、きっとあの環境から得たものも少なくないんだろうな、と自覚はしている。不遇と呼ぶにはあまりに物を得すぎた。(問題なのは、今現在胸を張れるほど楽器は上達しなかったということなのだが)

              今、私は中学2年生の私、そして現在の私、その両方を別々のものとして私の中に収めている。そこに因果関係はない。過去の私が存在して現在の私が存在するだけだ。それで良しとしよう。引退を迎えたあの日、あの青春時代の終わりに、私はそう心に決めた。

             大学に入った。大学のオーケストラに入った。大学に入ったらオーケストラをやろう、そう思っていた。だから所属する大学のオーケストラだから入った、それだけだった。

              だが、確かな感覚として、最近はそれ以上のものを感じているのだ。あまり綺麗事のように書きたくないし、若輩者の私の言うことだ、お世辞のようにとられてしまっても仕方がないかもしれない。でも今、私は素晴らしい人たちと一緒に音楽ができる。尊敬できる先輩と同輩たちの中で、音楽をしている。中高のような発表会ではない、音楽をしている。これがどれだけの意味を私の人生にもたらすだろう。未知数、宇宙、ケイオスである。

 

              今はまだ足を引っ張るだけの厄介者であるかもしれない。それでも、きっといつか未来の自分と今の自分の因果に胸を張れるように、邁進したい。