少し重い話をしよう。

 私は中高6年のうちに2人、近親を亡くした。叔母と祖母だ。叔母は私が小学生低学年の頃までだったが、私は二人ともと同じ家で暮らしていた。二人 は私の日常の一部だった。今日は私の叔母の話を聞いてほしい。

 叔母は頭の病気だった。脳溢血だったか、なんだったか、名前はよく覚 えていない。あまりに急で、早過ぎたのだ。叔母が倒れたのは亡くなる一週間前で、 私は部活を休んでお見舞いに通った。今日こそは、案外けろっとしているかもしれない。治っちゃった、なんてふざけて。そんな淡い希望を抱いて、慣れない電車の駅に向かった。

 叔母は昔、腎臓のガンで手術をしている。その時は、私がお見舞いに行った時には手術を終えてすっかり元気になっていて、病院食の里芋の煮っころ がしを私にくれた。透き通った綺麗な醤油色の煮汁に、控えめな大きさの里芋。 叔母は笑っていた。4年前も、私はその笑顔を期待していた。

 ここまで書いていて今更な気もするが、叔母という言葉はあまりに私と彼女の距離を遠ざける気がする。そして、いくらこれが全くの私的な記事ではな いとしても、胸が苦しい。なので、以下彼女のことは「みなちゃん」と呼ばせて頂きたい。

 みなちゃんは幼い私の憧れだった。私は今でもみなちゃんに憧れている のかもしれない。みなちゃんは、私にとってかっこいい大人の代表のような人物 だった。かっこいい服を着て、綺麗なお化粧をして、いつも素敵な香水をつけていた。

 みなちゃんは、月に一度は実家であるうちに泊まりにきた。私は毎回一緒に寝たいとごねた。土曜の夜、いつもより夜更かしをして一緒にスマステを見 るのが私たちのお決まりだった。仏間に布団を広げて、暗がりの中寝そべって見る深夜のテレビは非日常的で、ちょっと背伸びをしたつもりになった。

 中学二年生の時、みなちゃんの車に乗せてもらって、一緒に街に出かけた。お店の人に「親子ですか?」と聞かれた。みなちゃんは私の父の妹で、私は 父似だと言われる方だった。私とみなちゃんは顔立ちから髪質まで、よく似ていた。お母さんには申し訳ないけれど、みなちゃんと親子に間違われたことが嬉しかった。

 「紘香はどんな人になるんだろうね」と、言われた。私も、大人になった自分をみなちゃんに見せるのが楽しみだった。私が大人になった時、みなちゃ んもそこにいる。大人になった自分が、恋をして、仕事をして、結婚をして。悩んだ時、愚痴を言いたい時、嬉しいことがあった時、いつもみなちゃんが隣で話を聞いてくれ る。それが当たり前だと思っていた。

 みなちゃんが倒れたのは、その会話の二、三週間後だった。

 

 慌ただしく通夜と葬式が過ぎた。お焼香をあげにきてくださった、会社 の人、家族ぐるみの友達、親族。全員に数え切れないほど頭を下げた。初めて、 父の涙を見た。葬式まんじゅうは嫌味なほどに美味しかった。

 葬式の時に親族から聞いた話だが、みなちゃんは私を娘のように可愛がっていたらしい。自分が子供に恵まれなかったから。私は、私たちの間に「姪と 叔母」という新しい関係を感じていたから、みなちゃんが私を娘のように思っていた、というのは少し意外だったし、違和感を感じた。それに、可愛がられているにしては、みなちゃんは私にわりと辛辣なことも言った。親子にしてはぶっちゃけ過ぎていて、友 達のように近くて、ちょっとだけ遠かった。そんな、私たちだけの特別な関係が私は大好きだった。

 葬式で御経を読んでいただいたお坊さんが、こんな話をしていた。亡く なったけれど未練がある人は、何かに生まれ変わって未練を晴らし、成仏するの だそうだ。例えば、あなたが歩く道の樹の葉になって、あなたが立派になった姿を一目見に来るかもしれない、と。

 私は死後の世界があるかどうかとか、その主張に興味はあれど、その事実自体に興味はない。死後の世界とは無だ、なんて手塚治虫ブッダで読んだことも あるし、漠然と、そんなものか、と思うくらいだ。それでも、私が願うのは、どこかにまだみなちゃんが存在していればいい、ということで、彼女との繋がりをまだ感じていたい、ということだ。

 今も私の後ろでこの記事を書くのを見ているかもしれない。今日、学校 からの帰り道に聞いた虫の音はみなちゃんだったかもしれない。そんなことを 妄想する。そして、それが現実であればいいと思う。

 

 昨日の自主練帰り、20 時頃に講義棟から出た瞬間、驚いた。心拍数がぐんと 上がって、心臓がばくばくと動き出した。夏だ。夏が来た。夏の夜の匂いがした のだ。湿気た樹木の皮の匂い、むしむしとする空気の中、カブトムシになって樹 液をすするような、そんな感覚にトランスした。

 正しくはまだ夏に入ったとは言えないらしい。英語のクラスの友人曰く、今は 梅雨の中の晴れ間なのだそうだ。昨日は朝から目を開けるのが億劫になる程に 空が眩しかったので、私はついに梅雨明けか?と浅ましくも内心期待していた。 だが、例えただの晴れ間に過ぎないとしても、それはとてもいいニュースだ。嬉しい。梅雨の晴れ間バンザイ!

 今日も一日夏の匂いを楽しんだ。湿気の多い空気や汗をかかせるえげつない 気温は好きじゃない。でも、嫌いじゃない。夏の日本、風情だなと、思えるようになった。今日は部屋の窓を開けて、掃除をして、洗濯をして、また自主練に出かけよう。そしてあの夏の夜の匂いを再び、胸いっぱい楽しむのだ。

 ここで私の季節観について話してみたい。「過ちを犯す夏。過ちを雪ぐ冬。」これが私の持論だ。本能的直感、もしくは経験、見聞の蓄積による潜在意識とも言えるかもしれない。なぜか私には、夏に人は間違いを犯し、冬になるとそれを贖う、もしくはそんな醜い夏なんてなかったことにしようとする、そんなイメージがある。つい最近、話題になった映画がある。「Call Me by Your Name」だ。終わりがわかっていた、それでも恋をしよう。ハッ ピーエンドが訪れないとわかっていた、それでも共に今を過ごそう。そんな過ちを犯す二人に私は魅せられた。

 では、夏は偽りだろうか?いや、冬こそ偽りなのではないだろうか?夏は過ちかもしれない。だが、過ちこそ私たちの本当の姿なのではないだろうか。ごわごわとした厚い被り物を着込んで、私たちはいつも何かを隠している。自身の根源に関わるそれを、醜く美しいそれを、誰かに間違って晒すことのないように。

 でも、だって夏なんだもの、ちょっとくらいこぼしてしまっても、しょうがないではないか。だって暑いし、むしむしするし。太陽はギラギラとコートを脱がせようとするんだもの。高い体温が服の中にこもって、日差しの温度が髪の毛の中にこもって、くらくらして。頭がいつもより回らないんだもの。

 私は夏が好きだ。過ちを犯す人は美しい。本当の顔で笑おう。本当の心で泣こう。本当の汗を流そう。

 夏が来る。

私はソロがある曲を聴くのが好きだ。コンチェルトを聴くのも好きだ。高校二年生の春、 ジョイントコンサートという高校の女子部の弦楽部と男子部のブラスバンド部が合同で開催するオーケストラのコンサートが終わり、コーチと女子部のトップで反省会をしていた 時、コーチがこう言った。「みんな、そろそろドミナントじゃなくてもっといい弦に変えてみたら」私はその瞬間まで弦のグレードというものをそこまで真剣に意識したことがなか った。そもそもメーカーもよくわからない。そこでインターネットで弦のメーカー、あるい は種類毎の特徴をまとめた記事を探した。そして自分にあった弦を見つけようとしたのだ。 ある日、私はあるサイトを見つけた。そのページではバイオリニストの巨匠たちと、彼らが使用していた弦がまとめられていた。それが、私とバイオリニストの世界、そしてバイオリニストの王ヤッシャ・ハイフェッツとの出会いだった。

そのサイトにはそれぞれのバイオリニストの演奏の動画のリンクが貼られており、ハイフェッツパガニーニカプリース 24 番を演奏していた。(ただし、ハイフェッツは生涯を通してあまりパガニーニの曲を好んで演奏しなかったらしい、パガニーニに嫉妬していたのではないか、という記事を読んだことがある)それは突然で、非日常で、圧倒的だった。あのスタッカート、あのピチカート。全てが理解の範疇を超えていた。人間の右手は、左手は、こんなに繊細に大胆に動かせるものだったのだろうか?ああ、この人はこの楽器のために生まれてきた人なんだと、 頭のどこかで、当たり前のようにそう納得した。ニコニコ動画の「神演奏 ヴァイオリン」 というハイフェッツの動画で「嫉妬すら追いつかない。憧れすら届かない。」というフレーズを目にした。元々この言葉はメジロラモーヌという伝説の競走馬を形容するために生まれたそうだが、ハイフェッツの演奏を耳にしたあらゆるバイオリン演奏者の感情を形容するのに、こんなにぴったりの言葉はないと思う。

以来私はハイフェッツの演奏に夢中になった。実は親に無理を言って全集を買ってもら った。(100 枚入りで、オークションで 30,000 円で購入した。実質 CD1枚 300 円だと考えると、なんてお得なのだ!これが全集を買う人間の心理である)リマスター版のコン プリートエディションも持っている。こちらは録音が新しいので音質がいい。

それではここで、おそらくこの話をした誰もに聞かれた質問の回答をしよう。「どの曲が 一番おすすめ?」これは大変難しい。ハイフェッツはコンチェルトだけでなく小曲もよく弾く人だった上に、ルービンシュテインとフォイアマンと組んだ、俗に百万ドルトリオなどと 呼ばれる3人の室内楽曲もあり、ソナタも弾き、そのどれもが凄く魅力的だ。だがあえていうなら、ライトな気持ちでこの質問をしているのなら、まずオラ・スタッカートの動画でそ の技術に圧倒されてみてはいかがだろうか。「オーケーこいつは俺の手に負えない代物だ」 と思ったらそこで引き返してもよし。ハイフェッツの世界にどっぷり浸るつもりでこの質問をしているのなら、シベリウスのヴァイオリンコンチェルトが私のお気に入りだ、という旨を伝えよう。

本音を言うなら、出会いは様々なのだからなんでもいい、興味が湧いた曲をとにかく聴いてみて、それをハイフェッツとのエンカウンターを記念する特別な曲として 大切に胸の奥にしまっておいてほしい。だが、私はハイフェッツのシベコンだけは、いつ、 何度聴いてもあの「わきたつなにか」を感じてしまうのだ。

ハイフェッツは生涯を通して、「冷淡で、感情のない演奏」という心無い批評に苛まれた。 批評家たちはどれだけ目の前の演奏に圧倒されても、その重く冷たい高級なペンで、何か、批評ら しいことを書かなければいけない。それがお仕事なのだから。そこで見たままのことを書 く。「技術ばかりの冷酷な演奏だ、情熱的でない」と。ハイフェッツは、現代でいうヴェンガロフのような、顔や所動が激しいタイプの演奏家ではなかった。棒立ちで、常に無表情。それがハイフェッツの“パフォーマンス”の特徴だった。だが、そんなのは視覚が支配する、人間の拙い知覚がもたらす錯覚にすぎない。耳を閉じて、その音だけに耳をすませてほしい。それが音楽だ。そうすればハイフェッツの情動を必ずと言って良いほど目の当たりにできるはずである。

これはあくまでハイフェッツの音楽観である。私は彼の伝記を読んだので、そこに書かれていたことなんだろう。私自身の意見はまた少し異なる。まず、コンサートをライ ブパフォーマンスと捉えるかどうかという前提がある。視覚を含めたパフォーマンスだとするならば、大きな、時には大げさな動作は効果的だ。また、少なくともヴァイオリンにお いてのびのびとした動きとは、弓の元から先まで意のままに自由に操れることを意味する。 これは音色や音量の変化をつけるにあたって必然とも言える。よって大きな動作を伴う演奏は一定のアドバンテージがある。

ただし、これには反論ができる。簡単に言ってしまうならば「上手けりゃ関係ない」である。五嶋みどりラヴェルのツィガーヌの演奏を見た時、私はこれを見た人みんな共感作用 によって首と腕がガチガチに凝ってしまわないだろうかとさえ思った。腕に力が入りまくってるように見える。関節が固まって見える。それでも上手い。ならいいか。それが結論である。 中学高校の部活で、椅子に深く腰掛けすぎないようにと注意された。自由に体が動かせなく なってしまうかららしい。でもウィーンフィルニューイヤーコンサートを見ると皆ドカーンと金色の椅子に深く腰掛けている。すなわち、うまけりゃ何をしても許される。だっていい演奏をするんだもん。

そして、それはつまりアマチュアのペーペーの自分にはこの反論は適応されない、ということだ。改善の見込みあり。邁進しよう。

話がかなり逸れてしまったが、私が言いたかったのはソロがある曲ってすごくいいぜ、そ してハイフェッツの演奏をもっと深く知りたい、音源が欲しいという人は私に言って欲しいという話だった。オイストラフもある。いつでもどうぞ。

 映画館でポップコーンを食べなくなって、もう2年が経った。

 2年前、私は映画ひいてはミニシアターにどハマりした。高校二年生の春、とある映画をみた。誰が知るあの「レ・ミゼラブル」のトムフーパー監督の最新作、「リリーのすべて」だ。ワンカット、ワンシーン、全てが未知の魅力に溢れていた。印象に残っているのは、初めてアイナーがストッキングを履くシーン。滑らかで柔らかなあの白いストッキングの感触が、スクリーンと視覚を通して、私の手のひらに伝わった。美しいミザンセーヌ、音楽、そしてストーリー。それらの全てが当時の無知な私には衝撃的で、理性の光で蒙を啓く、とはこんな感覚かもしれないな、とさえ思えた。

 その年、実に私は80本近い映画を見た。年の前半はまだ部活動があったので、放課後があまり自由に使えず、もどがしい思いもしたものだが(ただし、一週間毎日家で一本見るなどした)、放課後映画館の味を占めた私は、年を越えるころには平日の学校帰りに二本立て続けに映画を見たりしたものだった。今思うと、これが若さか。

 名古屋は実はミニシアターの街だ。昔はゴールデン劇場(一度だけ行った。「いけちゃんとぼく」を見て、ストラップをもらった記憶がある)、シルバー劇場という2つのミニシアターも存在したのだが、もう私が中学に上がる頃には閉館してしまっていた。現在も営業している映画館としては、シネマテーク、シネマスコーレ(唯一行ったことがない)、名演小劇場、伏見ミリオン座、センチュリーシネマくらいのものだろうか。やはり、大都会東京に比べると見劣りしてしまうかもしれないが、全ての映画館がそれぞれ個性的で、非常にミニシアター系映画のバラエティに富んでいた。

 私は特に伏見ミリオン座に傾倒した。名古屋の映画好きからしたら「ミーハーめ」と言われてしまうかもしれないが、伏見ミリオン座に通い詰めたことは事実だからしょうがない。現に第一志望の大学(外大である)の合格発表の日も、呑気なことに私はアイスゆず茶片手に伏見ミリオン座で映画を三本みて1日を潰していた。高校二年生の頃はミリオン座の年会員だった。高校生が一回鑑賞で1,800円、会員は年会費8,000円で一回鑑賞が1,000円と1回ぶんの無料鑑賞券のはずだから(裏は取っていない)、10回鑑賞で元が取れる算段だ。(20回以上は劇場で鑑賞したので余計な心配だったが。)

 伏見ミリオン座の空間は私にとって特別だった。特に学校行事の振替休日、平日の朝一番の回は、時間に追われない極少数の穏やかな人々とともに、ほぼスクリーンを貸し切りだ。こんなに興奮することはない。また受験が終わって暇を持て余している頃に行ったミリオン座は最高だった。夕方遅くになると併設されているカフェですらガラガラで、一人で小川洋子の本を読むには、素晴らしすぎるロケーションだった。

 私は生来人混みが苦手だった。満員電車でもすぐ腹痛を起こして体調を崩してしまう。人混みというのは特殊な性質を持っていると思う。私たちの主観からすると、彼らは個人としてのアイデンティティを持たない、匿名の集合だ。だが、私たちは人混みにおいてその匿名の集合の存在を嫌でも強烈に意識させられる。匿名なのに、影が薄くない、主張の強い匿名だ。電車に乗っていると、服装変じゃないかな、髪型は、などと無駄に自分の見た目を気にして、どっと5歳ほど老けるような心地がする。

 私は人混みと同じくらい、人に見られることが苦手だ。きっと見栄っ張りなんだろう。私は常にできることならば全身にモザイクをかけて生活したいと思っている。声も、万引きGメンに「どうしてこんなことやっちゃったの」、と聞かれて「なんなんすかぁ」とか答える人の声のように、ヘリウムガスのようなエフェクトをかけてほしい。

 なぜなら私は自己肯定感が異常な程にないのである。ふとした瞬間にガラスに映った自分を見ると「うわ」と思うし、なんならそのまま「おかしくないかな…」と10分ほど自分を観察してしまう。ファッションも苦手だ。毎朝の化粧も髪の毛も自信がない。そして、私は自分のする事なす事全てを反省する。反省は私の得意技だ。「今日はあんなことをしてしまった」「あんなこと言うんじゃなかった」と、寝る前に何度も「今日のハイライト」がフラッシュバックする。日々自己嫌悪を募らせて、自己肯定感をすり減らしながら月日を重ねる。それが私という面倒臭い人間の人生なんだと思う。(友達にこの話をしたところ、バイトをしてお金を稼ぐようになれば一定の自己肯定感を得ることができるそうだ。対価に見合う自身の価値を見いだせるらしい)

 だから、私はガラガラの映画館が好きなのだ。映画を見ている間は、暗いシアターの中、誰もが自分の見栄やプライドを忘れてスクリーンに没入する。映画のキャラクターたちの人生を90分だか3時間だかで追体験している彼らにとって、もはや現実世界にいる生身の彼らは彼らではないのだ。

 だから、私は映画館に居場所を求める。大学に進学し、上京し、伏見ミリオン座からの隔絶を強いられた私にとって、映画館における居場所の構築はマストだ。ただし、それは同時に大変な困難でもある。なぜなら、東京は人がいっぱいいて怖いからだ。西武線から出たくないのに。どうか西武線沿いになんだかいい感じのミニシアターができますように。

 中学2年生の冬だった。我らが南山学園の講堂は人並に古めかしく、こぢんまりとした門を開けて、ところどころ茶色に錆びた外付けの階段を登って講堂の裏口を通らなければ、堂内に入れなかった。私は学校指定の藍色のコートを着て、まだパーヴォヤルヴィのサインが入っていない真っ白なバイオリンケースと、楽譜と筆記具と水筒が入っただけのペシャンコのリュックを背負って、門が開かれるのを待っていた。8時半頃になると先輩が来て、門を開けてくれるのだ。それほど早い時間でもなかったが、朝一番の空気は冷たいな、などと一丁前に考えたりしていたのを覚えている。当時の私は、先輩が朝早くから来るのに、自分がそれより遅くに来てぬくぬくと練習を始めるのはおかしい、と考え、自分が先輩よりも下手なことは自明、ならば自分は先輩よりもたくさん練習しなければならない、それは当然のことだと、そう信じていた。

 毎朝、誰よりも早く練習に来た。その代わり、帰宅時間の17時半になったら誰よりも早く片付けを始めた。当時の私は部内に友達がいなかった。

 私に友達がいなかったことは二つの原因がある。

  まず一つに、(現在も改善されていないのだが、)私は友達を作るのが不得手だ。また、私には自分から友達を作ろうとしないきらいがあるようだ。これはとても悪いことであると自覚している。人間関係の構築を怠り、周囲の人間にそれを押し付けているのと同義だからだ。私はまず自分が恥をかくこと、傷つくことを恐れずに、自発的に人との会話、コミュニケーションをなるべくたくさん試みるべきだった。コミュニケーションは場数でしか上達しないのだから。実践あるのみ。経験と反省、これを繰り返して人は円滑なコミュニケーションを学んでいくのだ。自己分析はある程度できているらしい。

 次に、合計8人存在するバイオリンの同輩のうち、実に6人が経験者、あと1人は幽霊部員だった。四面楚歌というか、四方面からあの忌々しいサンサーンスアルジェリア組曲が聞こえて来たというか(当時、経験者の同輩はほぼ全員この曲に乗っており彼女らのお気に入りだったようで、暇さえあれば同輩内で合わせ始めた。私は邪魔をして反感を買わないように、自分の練習を中断してひっそりと曲が終わるのを待った)。念のためいうが、お察しの通り私は中学でバイオリンを始めた。私の小学校時代はゲームと中学受験とコロコロコミックで構成されている。そのため、未熟で矮小な中学二年生の私は、彼女らを恨み、妬んだ。彼女らは部活に来てもほとんど練習などしていないように、当時の私の眼には映ったようだ(ものすごく主観が入っているかと思うが、少なくとも3割ほど事実である。彼女らは練習時間の多くをおしゃべりと遊びに費やした。ただし、結果をいうならば、現在その彼女らと私は非常に良い関係にある。大学に進学したメンバーでなんとなく暇な時に話すようなチャットグループもある。そしてよく使う。)

  一つ上の先輩も、練習しない人たちだった。なので、おしゃべりな同輩たちがいない時の練習場所は、いつもシーンと静まり返っていた。後輩も、音を出すのを怖がって、練習できなかったようだった。

              音を出さなければ。それも芯のある、大きな音を出して練習をしなければ、私は引退するまでこのままだと思った。なぜかはわからないが当時の私は、上達もせず、孤立したまま、あんな先輩いたっけ?と後輩たちに思われたまま引退する、そんなのは絶対にごめんだと、そう強く思った。音を出さなければ。練習をしなければ。捨てきれない恐れと恥を抱えたまま、下手くそな音をたくさん出した。どれだけ自尊心を奪われようとも、私は汚い音を出し続けて、いつか彼女らを圧巻させるような、「音楽らしい音」を出せるようになるんだ、と意固地になった。私のかすれた雑音が、講堂の階段に響いていた。それはそれは心許ないフィンランディアだった。

              帰りの電車の中で、いつも一曲繰り返しにして聴いていた歌がある。兄に教えてもらった邦ロックのバンドの曲だ。「爆弾を一人作る 僕らの薄弱なアイデンティティ」。疲れ切った私の身体と脳みそに、そんな歌詞が酷く沁みた。最寄駅でホームから改札に上がるエスカレータのあの閉鎖的な空間で聞くその歌は、いつも私の涙腺とギリギリの理性を刺激した。

 

 

              私は沸き立つ何かを持っている。湧きたつ何かかもしれない。これは誰もが持っているものなのだろうと、私は確信しているのだが、確かめる術がないので省略する。この「わきたつなにか」は、熱いお茶を飲んだ時に「今喉のここを通ってるわ〜」とわかる感覚の同じくらい明確にゴポゴポと、私の心臓が溺れるあたりまで込み上げて、交感神経を刺激し、思考回路を鈍らせ、視界を狭め、頬を上気させ、両眼を輝かせる。(これを読んでいるあなたが身に覚えがあるのならば、やはり誰もが同じ経験をしているようだ。)私の短く未熟な人生で、この「わきたつなにか」に泣かされそうになった経験が数回ある。一度は部活帰りにラジオでラフマニノフ交響曲第2番の3楽章が流れた時、一度はハイフェッツの演奏するヴィターリのシャコンヌを聴いた時、一度は某バンドのライブに行って初めて横隔膜を震わせる音楽を知った時、そして一度は高校二年生の秋、弦楽部生活最後のコンサート、2nd1プル裏で弾いたチャイコフスキーの弦楽セレナーデの四楽章で一楽章のメロディの再現が行われる前の0.数秒のゲネラルパーゼ。

              あの日、入部したての時はあんなに大きかった、あのライネルスホールで、憧れの弦セレを弾いた。そして確かにあの瞬間、まだ終わってほしくない、そう思った。あんなに辛かった私の青春時代、早く終わって欲しいと望んでいたあの日々を、ほんの僅かでも求めてしまった。

              (わかりにくいかと思うが、私が所属していた弦楽部のバイオリンパートは、トップの学年の中でパートリーダー2人と副パートリーダー2人、計4人が存在する。そしてその4人はコンサートの1プルトに座るのだ。引退時、私は副パートリーダーだったというわけだ。)

              私はこれをサクセスストーリーだとは思わない。過去の私を不遇だったとは思わないし、幸運とも思わないからだ。あの環境が今の私を育ててくれたのだ、と月並みな解釈も試みた。だが、現在の私が享受する諸々を理由にして、当時、確かに苦しんだ自分をなかったことにするには、そして肯定するには、私はあまりに大人じゃないようだ。(第一、共に励む仲間が一人くらいいてくれたって、同じくらいには成長できたのではないだろうか)だが、環境はいつでも自分を育てるもので、きっとあの環境から得たものも少なくないんだろうな、と自覚はしている。不遇と呼ぶにはあまりに物を得すぎた。(問題なのは、今現在胸を張れるほど楽器は上達しなかったということなのだが)

              今、私は中学2年生の私、そして現在の私、その両方を別々のものとして私の中に収めている。そこに因果関係はない。過去の私が存在して現在の私が存在するだけだ。それで良しとしよう。引退を迎えたあの日、あの青春時代の終わりに、私はそう心に決めた。

             大学に入った。大学のオーケストラに入った。大学に入ったらオーケストラをやろう、そう思っていた。だから所属する大学のオーケストラだから入った、それだけだった。

              だが、確かな感覚として、最近はそれ以上のものを感じているのだ。あまり綺麗事のように書きたくないし、若輩者の私の言うことだ、お世辞のようにとられてしまっても仕方がないかもしれない。でも今、私は素晴らしい人たちと一緒に音楽ができる。尊敬できる先輩と同輩たちの中で、音楽をしている。中高のような発表会ではない、音楽をしている。これがどれだけの意味を私の人生にもたらすだろう。未知数、宇宙、ケイオスである。

 

              今はまだ足を引っ張るだけの厄介者であるかもしれない。それでも、きっといつか未来の自分と今の自分の因果に胸を張れるように、邁進したい。